選ぶ私と選ばれる私

昨日の話の続きだけど、今日は僕の意見など。*1

僕は基本的に浮気とかするのもされるのも推奨派だし超放任派なので昨日みたいな会話は本当は理解しがたいところだったりする。いや、愛情の釣り合いとかじゃなくて浮気をされたらどうするかということか、束縛の程度をどうするかといった話のほうね。僕はわざわざ誰かと遊びに行くのにパートナーの許可を取ったりをしないし、とるように要求したりしない。その結果何かあっても相手に報告する義務もないしされる必要もないと思ってる。むしろそういうのは反省したり後悔して相手に報告したりしたらいかんのじゃないかと。知らなければお互い幸せでいられるのになぜ言う必要があるのかね?ばれないウソはウソじゃないし、知らないことは存在しないと同義なのに。故意でそういう不義を起こしたのなら徹底的に隠すべきだし、隠し通す努力をするべきだ。罪の意識にさいなまれて弱気になってはいけない。

ちなみに僕は現在までのところ浮気をしたことはないが、浮気をされたことはある。ていうか泣きながらごめんなさいごめんなさい、と告白された。そのとき僕が何を思ったかというと、怒りに震えるでもなく目の前が真っ暗になるでもなく、ただ、泣いて謝るくらいなら最初からしなければ良かったのに、不可抗力だったのなら一生隠しておけばいいのに、というようなことを考えていた。ゲロして楽になりたいというのはわからないでもないけど、それは話が都合よすぎやしないか?まあ、結局そのときは笑って許したのだけど、僕の中で評価が少しマイナスが付いたのは事実だ。でもそれは信頼できなくなったそういう話ではなく、単純にそのあたりの価値判断のできない人なんだな、と思っただけ。後から聞いたら別れると言われても仕方ないと覚悟してゲロったと言っていてその覚悟の部分だけは見直したけど。

上で浮気を実行したことがないと書いたがこれからもそうかどうかはわからないし、浮気ゼロを遵守するつもりもない。だからといって積極的に浮気する気もないけど。

断っておきたいのは僕は浮気に対するモチベーションを否定しないのであって浮気が社会的に容認されるべきだとは思っていない。だからこそ浮気を実行したものは、必死になって隠すべきだ。安易に許しを請うてはならない。つまり浮気の罪と罰は自分だけのものにしなさいよ、ということだ。

で、なぜ浮気モチベーションを否定しないかというと、恋愛において僕らはお互いに天秤にかける存在であり、かけられる存在であることを自覚するべきだと思っているから。大体の人はこれ多かれ少なかれ認識してると思うんだけど、なんか彼氏彼女の関係になってしまうと急にそういうのを否定して私だけ僕だけということを期待するようになる人が多いような気がする。まあ、つきあうということはそういう契約だという言い方もできるけど、その契約を心の底から信じてしまうのはどうかと思う。パートナーが自分をえらんだ時の気持ちが他人に対して発生しないとどうして信じられるのか。基本的に人は代替可能で、この人がいなくなったら死ぬなんて思ってても実際に死ぬ人はほとんどいなくてしばらくすると大体の人は立ち直って次の恋を見つけていく。そしてその次の恋が発生するのが現在の人と別れてからだなんて保証はどこにもないのだ。だから付き合ってしまったらそれでとりあえずゴールみたいな感覚には賛成しない。つきあっているとしても常に危機感は持つべきだし、実際に天秤にかけられたとしもそれは相手の人生設計の一環であってこちらがせめられることではない。だから相手に愛想を尽かされないように常に努力するべきだし、自分により適した相手を見つけた場合は天秤にかけることをためらってはならないと思う。

放任主義なのもお互いに選ぶ権利があると思っているからに他ならない。浮気をされたなら自分に至らないところがあったからだし、最高の満足を提供できていれば、別離に至る浮気などおこらないと思っている。性格的に火遊び程度の浮気を繰り返す人もいるかもしれないがそういうのはどうせ帰ってくるんだしまあいいかと思ってる*2。僕と一緒の時に楽しそうにしていてくれればいいのだ。

まあ、この考え方は僕みたいなまだ選んでいない、もしくは選んでいる最中の人にのみ通用する物で、すでに選んでしまった人にはまた別の論理が必要になるのかも知れないな。

ていうかこんだけ長々と書いたあとに気づいたけど、Ayanoさんのところのコメントのななしさんと言ってること同じだわ。しかもあっちの方が数段短くてよくまとまっててスマートだし。やれやれ。

*1:といっても僕の意見は特殊(だと思われる)なので何か他人にとって得るところは少ないかも。

*2:依存心が強すぎたり、異常に寂しがり屋の人の場合は知りません。そもそもそういう人は嫌いなのでつきあわない気がするし。